定年後の読書ノートより
中央アジアに入った日本人、金子民雄著、中公文庫
戦前、中央アジアへ入った日本人は数えるほどしかいない。有名なのは西本願寺の西域調査隊大谷光端師一行、その業績はソウル国立博物館で収集した宝物品の数々を感動しながら見学したことがある。この本は、明治の中頃、まだ中世の歴史そのままに眠る中央アジア・トルクメニスタンを探検した、3人の日本人を当時の外国文献等を参考にしながら書き上げたノンフィクション探検記。

1873年ペテルブルクからアラル海を越え、ブハラ、サマルカンド、タシケント、ウイグルを探検した西 徳二郎氏、オレンブルクからタシケントまで500キロの道を、郵便馬車に揺られ、真夏の炎天下数十日間も走り続けた西 徳二郎氏の苦行は、同じ道を4輪ジープで走り続けた自分と比較し、切々と胸に来るものがある。

当時ツアーロシアは、南下政策を強行し、軍隊の力で、ブハラ汗国、コーカンド汗国、イリ汗国を侵略服従させていた。西徳二郎は日本の来るべきロシアとの対決にそなえ、中央アジアをしっかり調査しておきたいと、始めての日本人としてこの地に入っている。

当時の旧都ブハラの衛生状態は最悪で、ため池の水は腐り、この水中には恐ろしい寄生虫リシタ・ギニーが生息し、人間がこの生水を飲むことによって、幼虫が体内に寄生し、成虫は体内で1メートル近くにも成長する。そして、その毒素の為腫れ物となり、非常な苦痛と死にいたらしむ。そんなドブ水を飲みながら西徳二郎の探検は続く。フェルガナにはすでにロシア軍隊が進駐し、コーカンド汗国は骨抜きのかいらい政権に成り果てていた。ロシアおそるべし、西徳二郎の警告は、日本政府を緊張させたに違いない。

福島安正は若き探検家ヘディンにもベルリンで会っている、英仏独露語に通じたエリート日本陸軍参謀。福島は1892年ドイツ駐在が終ると、数千キロのウクライナの原野とシベリアの森林地帯を488日、単身騎馬で帰った人として有名。1895年44才の福島はロシア南下政策が、中央アジアに軍事鉄道を敷設中であることに注目し、インド植民地を護る大英帝国とツアーロシアがアフガニスタンにてグレートゲームの対決しつつあった動向を現地で探索するのが目的だった。

福島はペルシャ湾ブシール港で上陸、テヘランからカスピ海に出て、中央アジア鉄道始発駅クラスノボーックからロシア軍事列車に乗り込む。ロシアはこの軍事鉄道を探索する日本の軍人に、早くも冷たい用心深い視線を投げかけていた。列車はアムダリア川を横切る橋が、木製であり、極めて不完全であり、この鉄道は一ヶ所を爆破すれば、マヒしてしまうことを福島は見抜く。

すでに当時のタシケントの町はロシア人新市街が着々と拡大しており、敵将クロポトキンの動きも福島にとっては興味深いものだった。その後、こうした潜行実績は日本参謀で最も中国通の軍人としての福島の名を高めた。

最後の探検家は日野 強、1906年、ウイグル地区イリへ潜行する。以上、帝政ロシアと大英帝国の領土拡大グレートゲームの19世紀末中央アジア、その動静探索と探検を目的として単身潜入した西徳二郎、福島安正、日野強の足取りを未公開資料を駆使して追い、日清、日露戦争前後の日本の大陸進出の断面を、臨場感豊かに描き出しているノン。フィクションである。

なを最近アフガニスタンの空爆でグレートゲームのキーワードがしばしば新聞に載るが、これはジャングルブックを書いたキプリングが言い出した言葉だそうだ。キプリング曰く「人類が亡び尽くさぬ限り、グレートゲームは終りっこないさ」。

西徳二郎(1847〜1912)1896年外務大臣を歴任、1897年全権特命大使として北京滞在中に義和団の乱に遭遇、その沈着な行動は世界の称賛をあびた。枢密院顧問、息子は西竹一氏はオリンピック馬術優勝、硫黄島玉砕。

福島安正(1852〜1919)日本陸軍きっての中国通。日露戦争主戦論者。参謀本部大将。スパイ網の陰の元締め。享年68才

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