初めての中国海外出張

中国は長い間自分の中で憧れの国だった。学生時代から、中国史は何冊も愛読していたし、死ぬまでに一度は万里の長城に立ってみたいとも願っていた。

1984年(昭和59年)4/26〜6/2豊田自動織機繊維機械輸出を目的とする技術交流会を中国各地で開催することになり、関連商社の方とあわせて6名で 約1ヵ月間中国全土を巡回することとなった。北京、上海、南京、天津、青島、蘇州、常州、石家荘、合肥、南通と、ある時は揚子江を船で上り、ある時は、寝台列車で22時間も大陸原野を走った。

初めて中国を訪問してきた豊田自動織機技術者は何処でも歓迎され、多くの中国人技術者とも親しくなった。まだ中国は、誰もが黄色い人民服を着て、道一杯広がる自転車部隊はすごい迫力だった。

文化大革命の痕跡は至るところにあり、天安門広場には有名な壁新聞がまだべたべたと貼ってあった。親しくなった友人達からは、文革当時、知識人は如何に嵐を耐え忍んだか密かな苦労話を何度も耳にした。しかし、自分は常に明日の中国を夢見ていた。

この膨大な大地と人民が、資本主義の競争原理を体得し、急速に近代技術をマスターしたら、この国の無限な自然資源を武器にしてどんなに強大な国になっていくのだろうか。その時日本はどうするのか。自分は中国現代史に更に強い関心を寄せ、その後も何度も中国を訪問したが、その度ごとに、急速に発展していく中国の姿はいつも驚きであり感動だった。

今も中国語会話はせっせと勉強している。本箱には中国語会話のテキストが一杯。しかし、今も1984年初めて中国を訪問したあの興奮と感動は忘れることが出来ない。







海外旅スケッチ 第4話 初めての中国技術交流会


豊田自動織機では繊維機械技術部紡機設計第1課長。主な業務は海外コンサルタント。中国は長い間自分の中で憧れの国だった。学生時代から中国史は随分学んで来たし、死ぬまでに一度は万里の長城に立ってみたいとも願っていた。

1984
年(昭和59年)4月 豊田自動織機は中国輸出を目的に技術交流会を中国各地で開催、関連商社の方と6名で 約50日間中国全土を訪問した。ある時は揚子江を船で上り、ある時は、寝台列車で22時間も大陸原野を走り、新中国の広大な大地を奥深く訪問した。

「日本からトヨタが来てくれた」豊田自動織機技術者は何処でも大歓迎され、多くの中国人技術者とも親しくなった。まだ中国は、誰もが黄色い人民服を着て、道一杯広がる自転車部隊はすごい迫力だった。兎に角中国は広くて大きい。
何処へ行っても人があふれている。まだその頃は文化大革命の痕跡は至るところにあり天安門広場には有名な壁新聞がべたべたと貼ってあったし、壁新聞の前には人民服の男たちが群がっていた。何処の工場にも中国共産党支部があり、夜の歓迎パーティーでは必ず共産党幹部が主賓であった。「改革、開放」を掛け声に中国は大きく変わりつつあった。

この膨大な大地と人民が、資本主義の競争原理を体得し、急速に近代技術をマスターしたら、この国の無限な自然資源を武器にしてどんなに強大な国になっていくのだろうか。その時日本は日米関係をどうするのか。自分は中国現代史に更に強い関心を寄せ、その後も中国へは20回以上は訪問したが、その度ごとに、急速に発展していく中国の姿はいつも驚きであり感動だった。

今も中国語会話はせっせと勉強している。本箱には
中国語会話のテキストが一杯。しかし、今も198年初めて中国を訪問したあの時の興奮と感動は忘れることが出来ない。


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