現役時代、「生産管理」と「繊維部門」2つの技術士国家資格を取得した。顧客信頼を短時間で確保するには、技術士資格は「博士号」に次いで有効。
定年3年後の2001年5月、JICAからウズベキスタン国家プロジェクトコンサルタントに選ばれ,初めて技術士として外務省パスポートで海外出張した。
外務省パスポート所持者は通関検査は一切なし、機内では機長が席まで挨拶、往復は当然ビジネスクラス。月収50万円、その内、5万円は、技術士資格プレミアム。
日本大使館にはいろいろとお世話になった。当時のウズベキスタン大使は、中山恭子氏だった。私が「スケッチ」を愛好し、中山さんとも息子が同じ大学に通っていることから自然と話題が一致した。活動はタシケント工科大学を本拠に、ウズベキスタンの繊維産業を如何に近代化するかがテーマだった。
工場訪問時の会話は一切ロシア語だった。敦賀工場勤務時代1年間ロシア語講座に通った経験は随分と役立った。いよいよ2年間のウズベキスタン駐在が決まりかけた時、アフガニスタン戦争が勃発、外務省に於ける鈴木宗男事件も重なって、このプロジェクトは結局実現一歩手前で中断、お陰で駐在員計画もご破算になった。
その直後、家内の乳がんが再発、6ヶ月の闘病生活の末とうとう還らぬ人となってしまい、65歳を上限年齢とするJICAともご縁が無くなってしまった。
結局外務省パスポートを使用出来たのはウズベキスタン出張の1回限りとなってしまった。