日本繊維技術士センターーCPD   

   

物流から観た シルクロード

                              

 

 

 

1、 西域へのいざない

 

2005年12月度JTCC東海支部CPDでは、パワーポイントプロジェクターを用いて、「物流から観たシルクロード」と題する報告をさせて頂いた。本報は、当日の講演を要約させて頂いたものです。

 

実は、シルクロードをCPDテーマとする前に、「英国における産業革命史」をテーマに取り上げるべきではないかと、随分迷いました。しかし、NHKスペシャル放映を参観以降、シルクロード現地も数回訪問を重ね、どうしてもシルクロードをCPDテーマにさせて欲しいと願い出て、「物流から観た」というJTCC的カッコ付によって、このテーマを取り上げさせて頂けることをお許し願った。

 

シルクロードへの憧れの気持ちを素直に綴った作家井上靖氏はシルクロードこそ、現代人に残された最後のロマンだと書いておられます。井上靖著「西域物語」にはこんな文章があります。「西域という言葉の中には、未知、夢、謎、冒険、そんなものがいっぱい詰まっていて、僕の心を奮わせる」。

 

2、 対照略年表からみたシルクロードの東西交流史

 

シルクロードの歴史を総括的にまとめた年表は、歴史学者松田壽男先生の対象略年表が一番優れていると思う。この年表は、シルクロードを舞台に中国・ペルシャとどのような歴史的接触があったかを非常に理解し易くまとめられています。すなわちシルクロードを中央アジアとして中央に位置づけ、中国およびペルシャサイドの両側からどのような歴史的接触があったか、立体的にまとめられたもので、ここに掲げた(1)~(3)は、その年表コピーです。

 

この対照略年表で、中央アジアとある欄が、シルクロードを意味する歴史的中心舞台で、西アジアとあるのは、ローマ、ペルシャ、パルティア等、オリエントサイドからの歴史的展開を意味し、東・北アジアとあるのは、中国、モンゴル、朝鮮、ロシア等からの歴史的展開を意味しています。そしてシルクロードが、中国やローマからどのような歴史的接触があったかは、この表の横方向に引かれた矢印が教えてくれます。

 

 

当日のCPDでは、ここに書かれている全ての歴史的用語をひとつづつ解説した別刷りを用意し、皆様に配布しました。(本レポートでは、巻末に歴史用語集を付記しました。)ここに書かれた歴史的用語をひとつひとつ歴史年表と照合して読み解いていくのは、実に楽しいことです。特に、興味深い話は、13年間も匈奴に捕虜になりながらも、フェルガナの月氏と連絡をとり、漢の武帝をシルクロードの征服者に仕立てた張騫の武勇伝や、あの難関なシルクロードの砂漠や山脈絶壁を単身歩きぬいてインドに至り仏教を学び帰国した玄奘法師の話など、幾つもの歴史物語は、シルクロードの面白さの極みであり、興味津々といったものです。この年表を見ていると、そうした歴史物語が次々と浮かんできます。

 

 

3、 絹を中心としたシルクロード交易史

 

ご存知の如く、エジプト文明が麻繊維を開発し、メソポタミア文明が羊毛繊維を開発し、インダス文明が木綿繊維を開発し、黄河文明が絹繊維を開発しました。4大文明の開発した4大繊維は、シルクロードを通じて、シルクロードを舞台にして、それぞれの国に普及していったのです。勿論その代表格に絹があります。ローマ人は中国の絹を同重量の金と交換した話は有名ですが、紫色に見事に染まる絹の素晴らしさは、ローマ人の憧れの的でした。こうして、中国とローマとの間に絹を運ぶ隊商交易が成立していったのは、皆様よくご存知です。

 

皆様隊商交易といえば、直ちによく博物館で見かける唐三彩の人形、すなわち駱駝舞楽胡人俑を思いだされることと思います。シルクロードの隊商を組織していたのは、漢人ではなく、深目高鼻のイラン系ソクド人でした。ソクド人は、シルクロードにそったオアシス各国に、ソクド人部落を持ち、強力な情報ネットワークを確立して、シルクロード交易の特権を独占し、やがてはオアシス王国の政治・金融までを動かす力さえ、持っていたのです。

隊商交易は、奴隷や家畜のほかに、錦など高級絹織物、毛皮、金、銀などの貴金属、じゃこうなどの香料、薬剤までを取引していました。奴隷交易に関しては、ウズベキスタン・ブハラ王国では、19世紀のはじめまで、奴隷売買市場が栄えていたことは、ヨーロッパ探検隊の報告にもあります。しかし隊商交易は常に大きなリスクを伴い、一回の往来で、3割以上の駄獣を失い、砂漠では盗賊が頻繁に出没し、常に命を失う危険と隣り合わせだったのです。しかし、こうした危険に見合うだけの儲けが必ずあったのです。ソクド商人は、非常に商売上手な民族といわれ、ソクド人の赤子は、誕生祝に口に蜜を塗り、将来も甘言を口にする術を仕込まれ、手にコインを握らせ、金を儲けよ 金を手にしたら絶対に離すなと悟らせ、幼い時から商人根性を徹底的に教えこんだと言われています。

 

ソクド商人によって、西域から長安の都に持ち込まれた宝石、香料、金銀細工、象牙細工、薬品は、その後遣唐使によって、奈良東大寺正倉院にも伝えられ、現在も秋の正倉院展では我々も目にすることが出来ることは、皆様よくご存知の如くです。

 

4、 隊商交易の物流

 

ソクド人の交易ネットワークは中国・インド・中近東・モンゴルの広域に及び、運輸、通信、金融、販売の実権を占有していたのです。ソクド人の隊商交易は、勿論物々交換を原則としていましたが、時にはササン朝ペルシャ銀貨を用い、今もオアシス国家や中国敦煌周辺からは、ササン朝ペルシャ銀貨が多く出土するのは、こうした隊商交易の隆盛を実証しています。中国やオアシス国家は、ソクド人交易に「称価銭」と称する取引税や通行税を課し、国家財政を支える財源としていましたが、同時にソクド人はシルクロード交易の独占を貫き、この独占権は中央アジアのイスラム化時代まで長く続きました。中央アジアのイスラム化では、ゾロアスター教を信ずるソクド人の徹底的な削除追跡となり、ソクド人は山中深く逃げ回り、今では、キルギスタン山中に隠れるようにソクド人後継民族が生き残っていることは皆さんTV等でご存知の如くです。

 

 

唐の時代、西域を制圧した中国は、タリム盆地のオアシス国家36カ国に鎮守軍を駐屯させ、多くの漢人がにらみを利かせていました。この唐のタリム盆地鎮守・駐屯費用はすべて、中国本土長安の都から運ばれた絹織物によって賄われていたのです。その絹織物の量は、ある史料によれば、年間1200万匹段とのこと、これら全ての反物はソクド人の隊商によって、長安からトルファンに運ばれたのです。絹が貨幣として、大量にオアシス国家に運ばれていた時代、この国家的運輸事業の一切はソクド人が請け負っていたのです。

 

トルファンに送られた絹製品はある史料によれば年間1200万匹段に達すると書残されていますが、これを具体的に隊商交易として幾つかの前提条件を設けまして計算しますと、なんと1日5組の隊商が、長安からトルファンの3千キロの道のどこかに活動していたことになります。本報では計算過程の詳細は省略させて頂きましたが、当時如何に隊商交易が隆盛を示していたかこの計算結果からも伺われます。勿論、こうしてトルファンに運ばれた絹製品は、さらにソクド人によって中国の国境を出て、はるかヨーロッパの彼方に輸出され、ヨーロッパ各国では、あこがれの中国絹織物として高く評価されていたことは各種史料が実証している如きです。

 

 

 

5.シルクロード史観と中央アジア

 

中央アジアといえばシルクロードと直ぐに結びつけて考えてしまうのが、長い間われわれ日本人の大きなロマンであり、中央アジア史観でした。しかし、こうした中央アジア史観に今大きな疑問が投げかけられています。日本の中央アジア史観はあまりにも、東西交渉史や中国の西域経営史の立場から論じられ過ぎてはこなかったか、我々は中央アジアを外部の人の記録によってしか解明してこなかったのではないか、もっと中央アジア史は、現地歴史資料に基づく解明こそが必要ではないか、こうした外部史料中心主義から、現地歴史重視主義への中央アジア史観が主張され、日本のシルクロード史観もこうした影響を大きく受けて次第に変わりつつあります。

今こうしたシルクロード史観の大きな変動が底流として、大きく動き始めているとき、「物流から観たシルクロード」は、幾つかの興味深いテーマを含んでいるのではないかと思います。しかし、本件については、本テーマと必ずしも直接的な問題でもありませんので、本日のご報告は、この辺で終了させて頂き次に控えておりますJTCC東海支部2005年度忘年会の方へ席を移させていただきたいと思います。本日は御静聴有難うございました。

 

(付記:対称歴史年表の歴史用語を全部解説しております)

新シルクロード資料  松田寿男氏作成 対称略年表 年代順 全キーワード       JTCCCPD 資料 

                

1)西アジア

ここでは、歴史的概念のキーワード。オリエント・中近東・中東と同意語。イラン高原より西のアジア。

2)中央アジア

中国タリム盆地からカスピ海に至る内陸乾燥地域。面積約400万平方キロメートル。

3)東・北アジア

東アジア:中国、朝鮮、日本。東亜。 北アジア:北方ユーラシアモンゴリアン遊牧民と漢民族の抗争の地。

4)古代ペルシャ帝国

BC550頃成立のアケメネス朝ペルシャ。地中海からパミールまで広がる世界的帝国。

5)拝火教(はいかきょう)

古代ペルシャ帝国の国教。原始アーリア人の信仰。光の神への帰依として、祭壇の火を拝した。2元教。

6)スキタイ芸術

アルタイ地方住んでいたスキタイ人が築いた芸術。金属工芸の分野において優れていた。

7)アレクサンダー東征

マケドニアの王アレクサンダーは、BC334年、中央アジアに攻め入り、インダス河流域にも侵入。

8)シリア王国

シルクロードの西端王国。パルミラの遺跡を残す。鉄の武器を持った軍隊を組織し、バビロンを征服した史上最初の世界帝国。

9)禺氏の玉(ぐうしのぎょく)

ホータン産の玉が河西の月氏族に中継されて、中国に伝達されていたという中国に伝わる慣用句。

10)ヘレニズム

ギリシャの文化がアジアやアフリカへ影響していった。アレクサンダー東征が大きな貢献をしている。

11)匈奴(漠北)(きょうど・ばくほく)

漠北とは外蒙古のこと。紀元前3世紀ごろより勢力拡大した遊牧民。漢に対して侵入、略奪を繰り返す。

12)安息国(あんそくこく)

ペルシア北部 パルティアのこと。紀元前3世紀ごろ、匈奴と頻繁に交易を行っていた中継国家。

13)バクトリア

紀元前3世紀、アフガニスタン北部にあったギリシャ統治の王国。ヘレニズム文化を開花した王国。

14)月氏(げっし)

東方では「玉の民族」、西方では「絹の民族」として知られ、中国の絹の転売者として活躍した。

15)秦・漢(しん・かん)

匈奴との戦いの中で、紀元前221年統一秦帝国、紀元前202年漢帝国誕生。秦は中国最初の統一国家。

16)冒頓単于(ぼくとつぜんう)

単于とは、王の意味。紀元前3世紀、匈奴は中国との戦いに明け暮れた。冒頓単于は父を殺し、国を強化。

17)張騫(ちょうけん)

漢の武帝は、張騫を西域に派遣し、匈奴征伐の情報収集に乗り出す。10年余りの匈奴捕虜から脱し、帰国。

18)フェルガナ

現在のウズベキスタン。大宛(だいえん)といった。張騫情報に基づき武帝は名馬汗血馬を求めて遠征。

19)武帝(漢)

前漢の皇帝。張騫に西域情報を収集させて、名馬を求めて、西域遠征。中国と西域交易の拡大を図った。

20)西域屯田

中国は、河西回路部を武力占領した後、ここを直轄領土とし、屯田兵を配し、開墾と武力の両方をかなえる。

 

21)ローマの西アジア進出

紀元1世紀、ローマはパルミラを占領。当時は絹は珍重。ローマは海上交易でも、季節風を利用し、アジアに進出。

22)西域都護府(せいいきとごふ)

紀元前600年ごろ、漢王朝がタリム盆地のオアシス国家55国を統治・監視するために設立した政庁。

23)班超

後漢西域経営の中心人物。匈奴を敵に回し、西域都護として、匈奴との戦いを挑む。班超引退後、後漢の西域経営は後退した。

24)クシャン国

今のパキスタン・アフガニスタンにかけて繁栄した王朝。ガンダーラに進出、カニシカ王がガンダーラ仏教美術を興隆。

25)後漢

紀元25~220年。タリム盆地オアシス諸国は、この時期東西交易の興隆で盛況だった。オアシス55カ国の人口も増加。

26)匈奴・天山の北

紀元前60年ごろ、匈奴の内訌激化、日遂王が部下を率いて漢に降下。その後も匈奴の内紛が続き、やがて北方へ敗走。

27)クシャン帝国

紀元2世紀頃、クシャン朝カニシカ王は、アフガニスタンから西インドの北半、東北はカシュガル、ホータンの大版図。

28)鮮卑(せんび)

北魏を建国した騎馬遊牧民族。晋の時代、皇帝の権力闘争で、中国内部の権力の弱みに乗じ、遊牧民が中国に移住建国。

29)亀茲、焉耆・干闐等有力、(きじ・えんき・うてんとうゆうりょく)

タクラマカン砂漠の大オアシス国。亀茲国をクチイ、焉耆国をアールシイ、干闐国をクスタナと呼んだ。

30)ガンダーラ芸術

アレキサンダー大王進出によるヘレニズム文化普及、ギリシャの神像の手法で仏像を作り始め、ガンダーラ芸術誕生。

31)ササン朝ペルシャ

アラビア半島を統一したイスラム教徒は、642年イラクからイランに侵入、ササン朝ペルシャ崩壊。王子は長安に亡命。

32)マニ教

ゾロアスター教とキリスト教、仏教などの折衷宗教。創始者マニ。ヨーロッパ、エジプト、中央アジアから中国に伝えられた。

33)ニヤ屯田

スタインがカロシュティ文書を発見したニヤ遺跡。紀元3~4世紀頃楼蘭王国の支配下にあった。屯田兵も駐在していた。

34)西晋

群雄が割拠する三国時代。黄巾の乱を契機に顕在化した政治的分裂は、三国の対立を経て、西晋による短期間の統一を見た

35)エフタル族

4~5世紀、ゲルマン民族の大移動が始まり、中央アジアでは白匈奴とも呼ばれたエフタル族の侵入が始まった。

36)グブタ朝(インド)

紀元3世紀後半、北インドが分立の状態にあったとき、ガンジス河流域の覇権を狙い、チャンドラグプタ一世が建国

37)高昌郡

現在のトルファンのこと。隊商都市として楼蘭、カシュガル、ヤルカンドと並んで 重要なオアシスであった。

38)五涼王国(河西)

中国河西地方は、西域への通路であり、多くの西域の商胡が集まり、西域と中原王朝の中継交易を行っていた。

39)東ローマ帝国

紀元476年、西ローマ滅亡。東ローマ帝国はビザンツ帝国として1453年まで続く。

40)ネストリウス派

コンスタンチノーブル総大主教ネストリウスが唱えた。西域から中国に伝わり、中国では景教と呼ばれ、唐末に衰えた。

 

41)柔然(じゅうぜん)

鮮卑が北中国に進出した後、北方草原地帯に勃興してきたモンゴル系遊牧民。5世紀初頭にはモンゴリアに支配権確立。

42)法顕(ほうけん)

中国の僧侶で、最初にロブ砂漠を歩いた人。人々は死人の枯骨を目印として進むと書いた。(仏国記)

43)北魏(ほくぎ)

五胡十六国のひとつ、鮮卑の拓跋部は4世紀のはじめ中国に進出し、山西省大同を都とする征服王朝を建国した。

44)吐谷渾(とよくこん)

隋朝が成立した6世紀末、シルクロードの実権を握っていた吐谷渾。青海に本拠をおき、タリム盆地の東西交通路を支配。

45)ゼマルコス等

7世紀、西突厥はソクド人を東ローマに送り、直接交易を提案した。東ローマはゼマルコスを答礼使として、西突厥に派遣。

46)アルタイ・チェルク

古代トルコともいう。6世紀中葉に、天山山脈北側、ステップ草原とアルタイ山脈の中間ズンガル盆地に突厥が出現した。

47)イスラム勢起る

ササン朝ペルシャが倒され、イスラム軍がアム河をわたったのが、671年。ウマイヤ朝に始まるイスラムの東漸である。

48)玄奘(げんじょう)

唐の僧侶で、629年中国長安を出発しインドに至り、仏教経典を持ち帰った。「大唐西域記」を書いた。

49)唐の西州、庭州、伊州

唐は西域諸国を支配していた突厥を破り、その支配下の西域各地に西州、庭州、伊州をおき、直轄三州とした。

50)吐蕃(とはん)

唐の西域経営に敵として抵抗したのは吐蕃であった。唐は、ササン朝ペルシャ王子を故国に送ると詐称して吐蕃を攻撃。

51)隋

隋の皇帝煬帝は西域交易の勧誘に熱心であった。西域校尉までおいて、長安や洛陽にやってきた隊商を接待させたという。

52)唐

唐とソクド人が直結していたため、多くのペルシャ文化が流行したが、タリム盆地にも唐の文化が伝わった。

53)ウマイヤ朝

イスラム:ムハンマドの死後、シーア派とスンニ派に分裂。ムハンマドの慣習に従うスンニ派の支配するウマイヤ朝。

54)安西都護府(あんせいとごふ)

640年唐が高昌を破り、安西都護府を亀茲におき、西域経営に乗り出した。これ等の支配は西突厥への対抗である。

55)北庭都護府(ほくていとごふ)

ズンガル盆地に配した北庭都護府は、西突厥に対して対抗するものであったが、チベット軍に亡ぼされた。

56)ウイグル(漠北)

漠北とは外蒙古のこと。外蒙古に住んでいたウイグル族の1派は、キルギス族の猛襲を受け、天山山脈の北麓や各地に逃れた。

57)タラスの戦い

751年アッパース朝は、ウズベキスタンにまで迫り、タラス河で唐と対決した。戦いは唐が敗れ、イスラムの勝利となった。

58)アッパース朝

ムハンマドの死後、ウマイヤ朝に反感を持つムスリムはアッパース朝を建国、イスラム帝国を確立した。

59)悟空

仏教の教えを天竺に求めた入竺求法僧。旅行記を残した入竺求法僧は、法顕、恵生、玄奘、義浄、慧超、悟空の6人のみ。

60)ターヒル朝

8世紀以降、中央アジアにはアーリア人に代わって、イラン人が進出した。820873年東部イランにターヒル朝成立。

 

61)新ウイグル

839年キルギス族の猛襲を受け、ウイグルは、四散した。一部のウイグルは天山山脈東山麓に移住し、新ウイグルを形成した。

62)ガスニ朝

トルコ人奴隷の身から知事にもなったアルプ・テギンは新たにテギンにカズニ朝を開いた。サーマン朝に従属していた。

63)サーマン朝

874年アラビア半島にイラン系サーマン朝が建国。イスラム世界の主導権はアラブ人からトルコ系に移っていった。

64)唐亡ぶ

唐帝国の権力争いは宦官の画策に左右され、財政を圧迫した。さらに農民と塩商人の蜂起が全国に広がり、唐の滅亡となる。

65)セルチュック帝国

11世紀トルコ人によるイスラム世界の拡大が進み、1055年セルジューク軍がバグダードに入城。

66)カラハン

中央アジアのウイグル系イスラム王国。9601132年まで続く。トルキスタンのムスリム化を促進。

67)タングートの活躍

西夏は11世紀から13世紀にかけてタングート族によって建てられた王国。遺跡としてカラ・ホト、銀川などがある。

68)グール朝

別名 ゴール朝。12世紀、インド東北部・アフガニスタンにガズニ朝を破り、君臨した王国。

69)フワーリズム

別名ホラズム。中央アジア アフガニスタン12世紀頃の王朝。

70)カラキタイ

12世紀中央アジア:ウズベキスタン周辺を支配した帝国。この帝国の下に、カラハン朝、ウイグル王国、フワーリズム朝あり

71)デリーのイスラム五王朝

11世紀アフガニスタンにトルコ系イスラム国家が形成。国王マハムドは異教徒をイスラムに改宗させることで北インドに侵入。

72)モンゴル帝国

12世紀 チンギス・ハンが台頭、アジア、ロシア、ユーラシアの大半を支配する史上空前の大帝国を確立。

73)マルコ・ポーロ

イタリア・ベネチアの人、13世紀、25年にわたる、ベネチアからフビライ・ハンのもとへ、帰国後「東方見聞録」主筆。

74)イル

13世紀、モンゴル軍は、ダマスカスを占領、シリアを席巻し、タブリーズを都として、イル・ハン国(12581353)建国。

75)ジャガタイ

モンゴル帝国の下に、元、オコタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン国、チャガタイ・ハン国が成立した。

76)キプチャク

モンゴル帝国支配下の4ハン国の一つ。現在のモスクワ、カスピ海、ウズベキスタンを含む。12431502

77)ティルム帝国

チンギス・ハンに破壊されたウズベキスタン・サマルカンドを再建したティムール帝国は、西アジアを統一。

78)明

元を倒した明は、伝統的中華帝国の回復し、「万里の長城」再建に力を入れて、ユーラシアから東アジアを切り離そうとした。

79)モンゴル諸部族

モンゴル帝国は、ユーラシアを結ぶネットワークを築いた。オゴタイ;キプチャク;チャガタイ;イル・各ハン国が結ばれた。

80)バアスコダ・ガマ

1488年、アフリカ最南端希望岬を発見、アフリカを迂回して、アジアに至る航路を現実化した。

81)モスクワ公国

アジア系遊牧民侵入によりスラブ民族大移動。キエフ王国は13世紀モンゴル襲来で崩壊。キプチャク・ハン衰退で自立。

82)ウィグリスタン

15世紀、東アジア交易を支配していたのはウイグル人。3年に1度、400人の大キャラバンで、遼に朝貢、40満貫に達す。

83)サファヴィー朝

16世紀、イスラム世界に君臨したのは、オスマン帝国とサファヴィー朝であり、現在のアフガニスタンに君臨した。

84)ヒヴァ汗国

17世紀、サファヴィー朝北部には、ヒバ、ブハラ、カシュガル・ハン国があった。ヒバ・ハン国は現在のウズベキスタン

85)コーカンド汗国

18世紀、現在のウズベキスタン周辺に栄えたトルコ系ウズベク族の国家。フェルガナ地方豪族により統一。

86)オイラード

西モンゴル族のこと。17世紀西モンゴルのジュンガル草原に強力なジュンガル帝国という遊牧帝国確立。

87)ズンガル汗国

オイラートが形成したジュンガル帝国のこと。オアシス定住社会全域も支配下に入れていた。チベット仏教を信じていた。

88)ロシア進出開始

18世紀、ロシアのピヨトール大帝は、中央アジア制圧して、インドに到達したいという野望を描き、要塞を構築した。

89)ムガール帝国

18世紀、インド・ムガル帝国は安定していた。しかし、内部政権抗争に乗じ、イギリスは内政干渉、プラッシーの戦いで崩壊

90)英領インド

1858年ムガル帝国滅亡。イギリスはインドを原料供給地から製品市場に化し、1877年ヴィクトリア女王がインド皇帝の兼ねた。

91)カジャール朝

現イランに1796年カージャール朝形成。ロシア南下政策の標的となり、ロシアとの戦争に破れロシア人の治外法権を認める。

92)清

1644年明を倒し成立した清は、2度のアヘン戦争でイギリスに敗れる。その後、巨大な民族運動が起き、衰退。

93)カザフ

中央アジアの北方部、カザフスタン民族の国。イスラム教スンニ派を信仰。首都はアスタナ。人口約1600万人。

94)アフガニスタン

18世紀、カブールを都に、アフガニスタン王国を形成。ロシアの南下政策に抗し、イギリスは3回のアフガン戦争を戦う。

95)トルキスタン省

南下政策を進めるロシアは、タシケントにトルキスタン総督府をおいて、植民地経営を実施した。

96)新疆省

1884年、清朝は、漢族とウイグル族の統治体制として、新疆省を設置し、漢族の移住を拡大した。






           以上、物流から観たシルクロード おわり

これは、2005年12月17日 日本繊維技術士センター東海支部(JTCC)にて開催した相互啓発講演会にて、講演したものです。

 

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