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父西川鋼蔵は扇子絵描きの職人西川竹次郎の長男として明治42年、名古屋市西区浅間町に生まれた。明治、大正期の社会的風潮であった立身出世の夢を鼓舞されて青春の日々を過ごした為であろう、東京への憧れは異常に強かった。当時では名門校のひとつであった愛知工業高校図案科を杉本健吉画伯の1年後輩で卒業した父は、直ちに上京、東京銀座白木屋百貨店宣伝部に入社、商業美術の世界に入り、トントン拍子に業界に名前を売り出していった。
父は可成り早い時期に独立し、東京日々新聞に連載漫画を掲載したり、新高ドロップで有名な新高製菓で、「うまいもん太郎」とか「バクダン小僧」という月刊漫画雑誌を出版したりして、業界ではそれなりの注目を受けていた。29歳で母と結婚した頃には、すでに東京、中野の高級住宅街に広大な2階建ての家を新築(隣家速水家の息子は現在日銀総裁)、書生さんや女中さんも置いていたようだから、収入も可成りのものだったと思う。30歳にして、父は立身出世の夢かなえられたりと充たされた達成感を味わっていたに違いない。
敗戦、父は東京での再起を期した。これからはアメリカと同様、宣伝広告こそが、時代を制すとの戦前からの父の主張を実現出来る日がついに来た。父はもう一度華やかな夢をかなえたいと人脈を掘り起こし、情報を収集した。満員列車に揺られて頻繁に上京を繰り返した。しかしすでに父は、40歳を過ぎていた。20代のあの華やかな業界レビューに比してあまりにも年をとり過ぎていた。4人の子供に加え、母のお腹にはもう一人いた。しかし父は、必死に夢よもう一度と東京での再復帰にかけていた。 新しい時代は、宣伝が重要な決め手になる。宣伝業界の先頭をきって、もう一度東京で華々しく復活するのだ。父の激しいストレスは胃にも大きな負担をかけていたようだ。しかし上昇志向の強い父は、華やかなりし東京生活に早く戻りたい一心だった。父は焦った。思うようにならない仕事に苛立ち、身体にも負担をかけていた。昭和25年12月12日、末弟徳三誕生15日目、父はかねてから弱かった胃が冬の寒さで突然悪化し、胃潰瘍から腹膜炎を併発、たった1週間の病床の末、5人の子供を残して他界した。まだ42歳の若さだった (追記)父が亡くなって50年が過ぎた平成13年のある日、たまたまJICAの技術指導業務でタシケントにいた自分の手元に1通の電子メールが東京の現代マンガ博物館から届いた。「貴方のアドレスをHPで見つけました。島根県の稲田様という開業医の方から、”西川鋼蔵さんのうまいもん太郎”について、問い合わせを受けています」とのこと。帰国後早速稲田様に「父の作品は戦災ですべて焼失しました。ごめんなさい。」とお詫び申し上げたところ、なんと稲田様から「幼少の頃から大切にしていました。これからは貴方の手元で保管して下さい」と、父の”うまいもん太郎”4冊を贈って下さった。本年76歳になられるまで、父の作品を大切にして下さった稲田様とそして、小生のHPを探しだして下さった現代マンガ博物館長橋様のご好意に心より感謝申し上げ、ここに作品の一部コピーを掲載させて頂きます。
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