冬の夜を赤子を背負い、裸足で歩き抜いた母。 西川多満子
母はまだ36歳の若さだった。父他界の翌日から、5人の幼子を抱え、貧困との闘いが始まった。生後半年も満たない末弟徳三を背負い、母は町の鉄工所で雑役婦として働き始めた。1日工場の片隅で働きながら、夜は近所の仕立物を請け負い、遅くまで裸電球が点いていた。

姉は中学3年、父他界で突然お嬢様学校「椙山」から近くの中学に転校、卒業後は高校進学を諦め電話交換手になるのだと電電公社に就職内定最終手続きを進めていた。私は我が家の食い扶持を減らす為、名古屋市西区で製菓工場を営む伯父の家に住み込み、丁稚小僧として朝早くから夜遅くまで働き中学に通わせてもらうことになった。次弟は小学5年、小さな身体で毎朝4時に起きて5キロの道を新聞配達を続けた。母は子供達を食べさせる為、一生懸命頑張ったが、絵描きであった父の残した僅かな貯金はいつしか底をつき、遺族年金など勿論無く いよいよ民生委員に相談し生活保護を受けざるを得なくなってきた。

しかし、当時の日本福祉行政では、生活保護を受ける家庭の子女は絶対に高校進学は許るされなかった。勿論その上に、近所からはあの家の子供は生活保護を受けていると常時後ろ指を指され、子供達に萎縮した精神が植え付けられていくことも容易に推定され母はどうすべきか決断に苦しんでいた。

或る底冷えのする冬の夜、鉄工所からの帰り道、母の擦り減った下駄が途中で割れてしまった。母は徳三を背負い、冬の寒空の下、裸足で1キロの道を歩いて帰ってきた。母は帰宅するなり隣室に独り閉じこもり ひとしきり声を出して泣いていた。心配する子供達は、そっと障子のスキマから母の様子を伺った。やがて母は、心配する子供達の前に「さあ、食事にしよう」と笑顔を作って現れた。青白い母の顔に、涙ではれ上がった真赤な目が忘れられない。

母はその夜決意した。「雛子、電電公社に行くのは止めて、高校に進学しなさい」。

晩年母は語った。貧乏人が、貧しさから脱出するには、技術を身につけるか、又は学校に行くしか道はないのだとあの夜はっきり悟ったのだと。どんなことがあっても子供達は学校に行かせよう、その夜 母ははっきり決めた。

母は昭和63年8月、72歳の生涯を孫達に囲まれながら、安らかに目を閉じた。生活苦と闘い、そして克ち抜いた母を誉めて上げたい。自分はいつもそう思っている。

  
幸せな時代の父、母、姉、僕 父亡き後極貧時代の母、弟達 晩年の母を囲む息子、婿、娘、嫁、そして孫達

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