2人は平凡なお見合い結婚。内科医である岳父の最初の言葉。「西川君、出世するなよ」。岳父は寡黙な人だったが、人生を淡々と見透している人だった。岳父の忠告通り、会社での立身出世には無欲で過ごすことが出来た。素晴らしい岳父に感謝している。

家内孝子は、独身時代は幼稚園の先生だった。2人の子供には塾通いまでさせて有名進学校に入れるのは反対。気楽に生きよう、このモットーは今も同じ。お陰で私にも「定年後も働いて」などとは、決して言わない。小生も気楽な年金生活エンジョイ。

 

幼少期は西宮に住んだ。2人の子供には、豊かな思い出を一杯創って上げようと、休日には奈良・京都を始め積極的に郊外散歩に家族4人で出かけた。兄弟仲はとても良かった。

夏の家族旅行にはいつも母親を誘った東洋紡では加工技術サービスに所属していた。弟が亡くなったのを機会に母の近くに永住しようと豊田自動織機に転職した。

転職後は、繊維機械技術部、受注設計第1課長。紡績プラントエンジニアリング担当。中国を始め、東南アジア各国に海外出張が多かった。仕事はやり甲斐があった。病気で休むことも無かった。恵まれた転職だった。

トヨタ産業技術記念館企画でヨーロッパ各国の博物館・美術館をくまなく訪問。技術士と学芸員の国家資格を取得。在職中にはパソコン理論と操作技術を習得、おかげで定年後もパソコンは大いに活用。2人共、趣味は旅行。よく2人で出かけた。

内科医であった義父は若くして亡くなった。大学を卒業した2人の息子を連れて知多半田の母の隠居自宅へ見舞いに出かけることは、我が家の親孝行の日課とした。平成10年、母88最の頃だった。孝子の乳がん手術直後とはいえ、一家全員で里の母を見舞うことは家族の楽しみであり母も喜んで迎えてくれた。

60歳の定年を無事迎え、一家で記念写真。今はボランティアで技術士会事務局支援の外、ホームページと読書、旅スケッチとアスレチックの毎日。朝目を覚ますのがたのしい。時々家内と一緒に近くにスケッチに出かける。

 

一番楽しかったのは子育て時代


スケッチする傍らで、家内は遠くを眺めながら楽しかった子育て時代の思い出話を語り続ける。

「人生で一番楽しいのは、一生懸命になって、子供たちを育てている時ね」。

家内のつぶやきに私も思わず相づちを打つ。

新緑の郊外、おにぎりを開いて楽しく笑い合った過ぎし日の子供たちのしぐさを思い浮かべる。


付記
子供たちもそれぞれ社会に巣立ち、再び2人だけの生活に戻ったある晴れた春の日
家内と郊外にスケッチに出掛けました。しかし、この日の思い出も今では遠い記憶になってしまいました。
 

 

 

 





妻の大往生

 

 

 

                 (刈谷 亀城公園の桜満開風景 2004年4月)

 

今、公園では桜がこぼれるように満開です。しかしこの美しい桜も、明日には散り始めます。美しい桜をこうして眺めていると、何故か目の前がボーツと霞んで来ます。

 

 生命とはどうして こんなにもはかないものでしょうか。

 

家内孝子が、今年1月6日亡くなって、早や100ヵ日が過ぎようとしています。この3ヶ月間、自分はホームページを開く力も、いわんや妻孝子のことを書く力も失い、毎日呆然と過ごしてきました。その間、ホームページには幾つかの不具合が発生していることも、勿論全然気がつきませんでした。

 

 

思えば家内孝子が乳がん手術を受けたのは、今から5年前。自らの乳房に異常を感じ、病院に駆けつけた時、がんはすでに20mmの大きさにまで進んでいました。以後、がん再発をおそれ、きちんと定期検査は受けてきましたし、用心も重ねてきました。

 

 

がん再発がはっきりしたのは、僕の大腸がん手術が家内に大きなストレスを与えた昨年6月から4ヶ月後の昨年10月のことでした。がんは肝臓に転移していました。肝臓への転移は、非常に危険だと本で知りました。僕も必死で看病に尽くしました。

 

 

3ヶ月間、家内は抗がん剤の副作用で苦しみました。夜中に何度も起きて嘔吐や咳き込みを重ね、その度ごとに家内の背中をさすりながら、どうか生き抜いてくれ、絶対に死なないで欲しいと祈り続けました。家内は昼間は床の中から、家事のこと、料理のこと、病気のこと、家計のこと、そしてご近所とのお付き合いまで、細かく気を使って声をかけてくれ、時には「貴方、私がいなくなっても、家のことはきちんとやってね」と笑いながらこちらを眺めていました。

 

 

12月31日、とうとう救急車で刈谷総合病院に入院しました。主治医は正月中も毎日来診、懸命の処置をして下さいましたが、1月6日、とうとう肺と腹中に水が溜まり、血圧もどんどん降下、臨終も近いと知り、急いで息子を東京より呼び寄せ病室に詰めました

 

 

1月6日午後4時、「お父さん、抱いて」と申す孝子をしっかり抱きしめてあげると、孝子も私を強く抱きしめてくれ、「お父さん、本当に長いこと、有難う」と耳元で温かくつぶやいてくれました。これが孝子の最後の言葉でした。孝子は私と2人の息子にしっかりと手を握られ、安らかに目を閉じました。孝子は最後まで死を怖がるどころか、穏やかな、安らかな眠りにつく堂々としたものでした。

 

 

死がこれほど、安らかで、厳かなものだと初めて知りました。孝子は何も苦しむこともなく、まさに眠るが如き安らかな、顔には笑みさえ浮かべた穏やかな最後でした。

 

 

「奥さんは、本当に明るい人でした」と孝子は皆様から評されてきました。そんな孝子の人生そのものを象徴するかの如く、穏やかな、明るい、輝くような、美しい最後でした。

 

 

2人の息子は、母の死後、泣き崩れることもなく、別れの式にきびきびと行動してくれました。2人の息子を眺めながら、孝子は立派な子供たちを残してくれた、自分はこの息子たちを無事に社会人として送り出していくことが、孝子から任された最後の役目なのだと実感しました。

 

長男哲三、次男研三の「七五三祝い」神戸・西宮神社にて

 

 

 

あれから、100日が過ぎました。今 公園では桜は満開です。友人田村君が贈ってくれた句

 

 

「散る桜、残る桜も散る桜」。

 

 

孝子が残した位牌の右側は今はまだ空白になっています。いつの日か、ここに自分の戒名が書き込まれる時、自分は再び、そして永遠に愛しい孝子と一緒になれます。その日まで、孝子と私の願いは2人の息子を立派に社会人として送り出すことだと信じつつ、今じっと満開の桜を見つめています。

 

平成16年4月7日

今は亡き家内孝子を忍びつつ  西川尚武

 

(題名「妻の大往生」は永六輔さんの書名より頂きました。偶然にも永さんの奥さんと家内とは同じ1月6日が命日ということです。永さんの奥様も大変きれいな方で、また最後は安らかな旅立ちだったと永六輔さんは書いておられます。)

 

 

 

孝子の生前最後のスナップ写真(2003年10月)。この時すでに肝臓への転移を告知されていましたが、孝子はこの時も、そして最後まで、平常心を失うことはありませんでした。

 

最後の日、お見舞いに駆けつけてくれた友人たちとも、幾つかの冗談を語る明るさを失いませんでした

 

 

孝子は、習字教室に通うのを大変楽しみにしておりました。

 

彼女は字を書くことはあまり得意ではありませんが、習字教室の皆さんとワイワイガヤガヤ話しあうことがとても楽しいといつも申しておりました。

 

 

西川孝子、享年62歳。

 

皆様から常に明るい人、話易い人と評され、愛されてきました。

 

或る未知の女性の方から、素晴らしいご感想をメールで頂きました。有難う御座います。
 


妻の大往生」。

とても悲しいけれども、

誤解を恐れず申し上げれば、
さわやかな幸福感を感じます。
充実感も感じます。
夫婦というものの一つの幸福な形であるように思います。


また、不遜を返りみず申し上げれば、
女なら誰でも望む大往生ではないでしょうか。
愛する人に看取られたい。


旅スケッチと読書ノートの中にも、
奥様はまだ生きておられると思います。
ホームページを読む私どもも、
奥様の息づかいを感じることができます。
読書に励む「夫」を見守る奥様の眼差しを
感じることができます。


奥様のお父上の「出世をするな」というお言葉。
お子様の有名進学校への入学を反対された奥様。
スケッチをする「夫」の傍らで、
「子育てをしている時が一番楽しかった」と語らう奥様。
多くのことが印象に残っております。


聡明で、ユーモアがあり、包容力があり、
気さくで、明るく、美しい・・・・・・。
こういった形容詞を奥様に捧げたいと思います。
ホームページの読者は皆、
そう思っているのではないでしょうか。



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