(刈谷水門)、太めの筆ペンに水をにじませて、水面を軽く上塗したら、下塗の絵具が溶け出して水面の広がりを生み出し筆ペン使い方に新技法を発見出来ました。


(有松松並木)旧東海道に残る絞り問屋街の雰囲気を出したいと苦労しました。屋根瓦の重厚さを出すのに苦労しました。
江戸時代東海道を行き交う人々はここ有松で、お土産に絞り手ぬぐいを買い求めたそうです。現在も絞り染めが盛んな町です。


インドへは豊田産業技術記念館創設の際、世界で最古の紡機(1870年英国製)収集の目的で5回以上出張。(当時はボンベイ)・ムンバイ、タージマハールホテルは
インド定宿ホテルでした。英国が大英帝国のメンツを誇示した当時では植民地随一のすごいホテルでした。有名な「インドの門」はホテルの門前にあり、いつも窓から
英国女王歓迎の為に創ったインドの門を観ていました。ホテルの庭の籐椅子で寛ぎスケッチする時間は、最高の気分でした。


まだ昭和20年の終わり頃までは日本の農村のあちこちにはこんな藁屋根風景の農家が一杯残っていました。しかし、今はもう日本国中どこをさがしても
この様なさびれた雰囲気を残す農家を探し出すことは出来ません。日本ののどかな農村風景、本当に静かで、懐かしい佇まいですね。





中国雲南省麗江は中国とチベットを結ぶ茶馬古道発端の都市でしす。、この古道は中国からチベットにお茶や馬を運んだ有名な古道です。

古代では、栄えた地方都市です。、この地域ではまだ女系家族が残され婿入り婚が残っているそうです。



中国雲南省古都麗江の古寺から、4600mの玉龍雪山を望む。あの山の頂上までロープウエーで登りました。
この絵は古都麗江にも観光で出かけたことがある東洋紡杉浦潔彦先輩より、良く描けているなあと褒められました。





刈谷逢妻川近くをぶらりと散策し、見つけた廃屋というより廃工場、田んぼ道に座ってこの廃屋を独りせっせと
描き上げた。刈谷とはこうした廃工場が残っている古い街でもあり、日本一の自動車産業を生み出した新しい住み心地の良い街でもあります。


奈良、興福寺、阿修羅像は絵を描く人なら誰もが一度は描いてみたいと願う有名な飛鳥仏像。僕も阿修羅像に熱中します。
興福寺の阿修羅像は、20代の頃から憧れの仏像の一つで大阪にいた頃は毎週の如く、奈良興福寺に通った思い出があります。水彩画 20号。


奈良、東大寺を登ると、三月堂がある。司馬遼太郎は奈良ではこの一帯が一番素晴らしいと褒めている。
この堂内の仏像は全て東大寺博物館に移され今は三月堂内の仏像スケッチは一切許されていないのが残念です。昔はこの堂内の
日光、月光菩薩を毎週一生懸命に描きました。心落ち着いた青春時代でした。



スペインへは合計4回 50日間ぐらい、加納先生と一緒にスケッチだけを目的にスペイン隅々の街を旅行しました。
通訳兼ドライバーとして同行してくれた原青年は、青春時代をスペインで放浪人生を24年間を過ごしたという侍青年。
原氏はスペインの片田舎の教会、バル、民宿等、熟知しており、通のみが訪れるスポットをいつも案内してくれた。


中国、桂林。船に乗って川を下ると、次第に周囲の山々の形がカルスト地形独特の鋭くとがって川辺に迫ってくる。この山々の形状がたまらない。
船の上から何枚もスケッチした。川岸には牛たちがのどかに水草を食んでいた。穏やかでのんびりした中国奥地の雰囲気でした。



ペルー・マチュピチュのインカ帝国遺跡。こんなに山奥に創られたインカ帝国夏の王宮にスペイン植民地主義者達は誰も気が付けず、
発見されたのは19世紀アメリカ人によってとのこと。沈黙の空中都市マチュピチュを夢中になってスケッチした。


ここまでは刈谷市民秋の美術展に出品してきた作品群です。
これ以後は、西川尚武のホームページ上にリリースされている
108回に及ぶ海外スケッチ紀行集より抜粋し、転記しました。


紀行集のスケッチは家内亡き後 僕の人生のすべてであります。
一枚のスケッチの中に、当時の私の寂しさ、涙が隠されています。


僕は海外旅行のお蔭で、中国語、ハングル、ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語と親しくなることができました。

僕の海外旅行には独り旅行が主体でどうしても現地語会話が必要。ラジオ講座で独習しました。英語は準1級フランス語は3級、次男夫婦はTOEIC950点です。




籠に盛られた3個の柿、未だ少し青味が残っていて、枝葉も美しい。僕は海外旅行スケッチが大好きで海外スケッチを主に描いてきましたが、
こうした小さな生物を描くのも大好きです。


2006年9月10月  次男夫婦は両方の親を誘ってチェコ、オーストリア、ドイツを案内してくれた。嫁の両親はアメリカ留学5年の体験者。英会話は自由。
息子夫婦も2人共TOEIC950点の英語通。ヨーロッパを家族5人だけであちこち旅行をしていると時々 日本人観光客に出会い
「家族の皆さまでヨーロッパ旅行ですか、お幸せですね。」と声をかけられた。ドイツ オクトバーフェストでは ドイツ市民も加えにぎやかにビールパーティを楽しんだ。



妻が亡くなったのは2004年の1月6日、この年の春、刈谷亀城公園の桜満開。寂しい毎日でした。
スケッチしている時間、妻の思い出に浸り涙を流す哀しい時間でした。



新鮮なリンゴ3個と                  紫陽花の花を各色そろえた生物1景

僕の好きな小さな生物のスケッチ。年老いた84歳の自分にはもうこんなスケッチさえ描けなくなりました。
昔描いた絵をもう一度見直し、昔を忍ぶ毎日です。



トルコ、イスタンブル―には写生すべき数多くのスケッチポイントがあります。スケッチブックと水彩絵具を持って、10分間スケッチを楽しみました。
仕上げる時間は、「生きていて楽しいなあ」と実感する時間でもありました。トルコはヨーロッパとアジアの最接近点は独特の雰囲気を残すボスポラス海峡です。




愛知県知多半島先端・常滑陶磁器団地の四角いレンガ煙突。空港進出によって今はもう全てなくなってしまいました。
昔は常滑のスズメは、煙突から吐き出される黒煙によってスズメがカラスになると比喩されていたそうです。



オーストリアアルプス湖畔ハルシュタット。息子はここに世界の有名人が宿泊するバルコニーつきホテルを事前予約してくれていた。
バルコニーに寛ぎ1日写生した。僕の泊まった部屋の宿泊ノートには、エジソンやアガサ―・クリスティの名前があった。そこに僕の名前も書き入れた。




絵の仲間でヨーロッパ各国をバスツアーした。ベルギーではギルド商人が創った建築群一角は世界的にも有名。
運河のほとりに皆並んでこのクラシックな建物をスケッチした。仲間の独りが窓の描き方を教えてくれた。


JICAが企画した技術コンサルタントとして、ウズベキスタンの全繊維工場を訪問 技術指導、休日はシルクロードスケッチ三昧。素晴らしい海外出張だった。
当時、技術士の資格付きで月収50万円。日本大使館の女性通訳付きで、シルクロードをたっぷりと満足した。当時の大使は中山恭子さん。随分お世話になった。
お世話になったのは日本大使館。約6カ月 ウズベキスタン各地を大使館の車で走った。



丁度、ホテルの窓から、ナイアガラ瀑布の落下先端が見えて、ゆっくり写生することが出来た。ここはアメリカとカナダの国境地域。大森林が豊か。
ナイアガラの滝を良く見ると、アメリカ人婦人たちが瀑布直上で泳いでいた。勿論彼女達の周辺には網が張ってあったが。



イタリアフィレンツェには何度も出かけた。このドウモと呼ばれるキリスト教会の天井には、様々な逸話が残っている。
ステンドガラスが組み込まれた教会本堂の円天井は美しい。イタリアルネッサンスはここから発した。
フィレンツェには織機重役と1回、次男夫婦と1回、スケッチ仲間と2回、合計4回行った。


韓国、慶州は仏教の故郷として、何度もスケッチに訪れた。ハングルは1日でマスター出来る外国語です。慶州は日本の奈良と深い繋がりがあります。
奈良とは、ハングルで「我が國=ウリナラ」という意味です。古代奈良には韓半島から沢山の人が帰化していました。



大英博物館は、合計5回も訪問をした。最初に訪れたの、豊田産業技術記念館創設に際し特別に、大英博物館の収蔵庫を見せてもらい、
産業革命当時の紡績機械一式を豊田産業技術記念館に展示させて貰う快挙を得ることに成功した。
豊田産業技術記念館入口にずらりと展示されている産業革命当時の紡績機械は大英博物館のお世話で可能となりました。
お礼に、大英博物館に豊田佐吉翁発明のG型自動織機1台を寄贈、入口真正面に飾ってあります。日本の発明品ではこれが唯一です。




フランスは何度も訪問した。パリから車で3時間、モンサンミッシェルの手前にクロード・モネが愛したエトルタノの海岸がある。
クロード・モネはこの海岸で油絵を何枚も描いている。実物はアメリカメトロポリタン美術館にある。僕もその実物をメトロポリタン美術館で観て感動したことがある。





中国。世界遺産・石林を尋ねたのは、海外旅行80回目、2008年2月だった。この時期の中国・雲南省は春の温かさが一気に大地に広がっている。
菜の花・段々畑が大地を黄色に染め、茶葉古道、母系社会を今も連綿と残す少数民族 ナシ族の文化。
若者は今も娘の家にしげしげと通う長江通い婚の伝統。羅本の旅行は、雲南省少数民族の世界に触れる貴重な世界遺産旅行だった。




シンガポール中央公園に立つ国会議事堂。シンガポールには東洋紡現役時代技術指導で6カ月駐在したことがある。
休日にはここの芝生の上で、何枚ものスケッチを楽しんだ。海岸に面し、潮風が心地良かった。
しかし、もう芝生に面した海岸線は遠くに後ずさりし、この芝生地は韓国が近代ビルを幾つも林立した。




中国新疆ウイグル地区を行く中国大陸鉄道。何時間も砂漠の中を走る。高速バスが大陸鉄道に沿って走る。
大陸鉄道の貨物列車は長い。そんな広大な砂漠の中で、突然膨大な風力発電基地の無数の風車に出くわす。中国は何事も規模が違う。






イタリア・ローマ大法王庁。無数の信者が静々と法王庁の建物の中に吸い込まれていく。ここにはイタリアルネサンスの極致となった
素晴らしいミケランジェロ等の壁画が一杯ある。1日堂内の名画を観てすごした。2007年4月。僕は未だ69歳の定年後の遊興人間だった。





台湾故宮博物院。蒋介石が1950年共産党との革命戦争で敗退時、アメリカ第7艦隊に護られて、北京の故宮博物院の全宝物を
艦隊に載せて台湾に持ち込んだ。戦後一時期は台中の地下トンネルに宝物を隠したが、今はここ国立故宮博物院に
一般公開している。僕も訪台湾時には必ずここを訪れ、中国古代の宝物に感動する。








パリからモンサンミッシェルに向かう途上、ブルターニュ・オンフルールの港町にバスは必ず立ち寄る。
入り江を囲む建物の美しさに画家はキャンバスを立てる。ここで食べる生カキの美味さは有名である。
ここを訪れたのは2004年6月、妻孝子を亡くしてまだ半年後だった。僕はこれを機に海外旅行にのめりこんで行った。








パリからモンサンミシュルへスケッチ仲間とバス旅行を楽しんだ。海岸にポッコリ浮かぶ島の頂上まで、キリスト教会が
ぎっしりと建ち並ぶ。背景の大西洋に夕陽が沈む。モンサンミッシュルが真っ赤に燃えた。
ホテルの窓超しに輝いていた。思わずスケッチブックを取り出して、赤い絵具を思いっきり塗りこんだ。








カンボジア、アンコールワット寺院は、未だポルポトの戦火が残っていた。並ぶ仏像の首を全て切り落とし
これをポルポトは外国商人に売り渡し、戦費としていた。アンコールワットの寺院内へは、象の背にの乗って入った。
古い寺院は、ポルポト戦争によって大きく損傷されていた。





イタリア・ローマ時代のコロセウム遺跡。すごく精密に設計された大建築物。訪問するたびに
ローマ時代の西欧文明の先進性に驚きの声を発する。古代ローマの文明に尊敬の念を深くする。






ベトナム戦争がカンボジアでは大きく屈折した。ポルポト政権はこのアンコールワットに閉じこもり
カンボジア市民の虐殺を繰り返した。一体誰が悪の張本人なのか。人々は毛沢東にこそ大責任があったとは誰も言わない。





大きなタクラマカン砂漠の最西端、カシュガル。ここにはイスラムの雑踏がある。カシュガルのバザールを尋ねたのは
2005年10月であった。カシュガル・バザールでラクダと西欧人の唐三彩陶磁器を購入した。


オランダホールンの港町。加納先輩との西欧旅行途上。当時オランダはアジア進出で莫大な富を稼いでいた。
港の大きな建物にはオランダ商会のシンボルマークが高々と掲げれていた。




ロシア・サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館内には大きな円形劇場があり、
ここでは毎夜オペラが演じられている。チャイコフスキーの「白鳥の湖」公園も
ここエルミタージュ円形劇場にて参観した。







ここが有名なロシア・赤の広場。あの石造りの建物の中にレーニンの遺体が安置されている。
この赤の広場には革命記念日等に200万人の人々が詰めかける。石の造りの建物の反対側は、
ロシアで最大のグミ百貨店がある。世界的なブランド物しか売っていない百貨店。




北ベトナム最大の人工密集市場がそろう、十字路。この角の2階のカフェから雑踏道路をスケッチした。
もすごい数の自転車通勤者、ここがアメリカ帝国を打破した北ベトナムの最大繁華街とは直ぐに認識出来ない。






ここが新疆ウイグル地区、ウルムチ・紅山公園。敦煌へ出るにはこの街を必ず通る。昔アヘン戦争で先頭にたった
林則徐は、香港を追われたあと、ここ敦煌の長官になってきた。敦煌を発展させたのは林則徐だとのこと。
今はタクラマカン砂漠に油田が発見さrて、敦煌は急速に工業都市として発展している。







南米。ペルー・マチュピチュから4000mの峠をこすと、チィチィカカ湖に出る。チィチィカカ湖の浮島は歴史が深い。
脚の茎を3m以上積み上げて島をつくり、そこに人間が済んでいる。世界でここだけだ。浮島に人間が暮らしている島は。








九塞溝と黄龍はいつも観光客は連続して足を伸ばす。九塞溝は滝の水の美しさ、黄龍は段々池の水の透明度の美しさ
ここはすでにチベット人が生活する地域になっており、不思議な香りの漂う大自然の奇景である。






イタリア半島、地中海海岸には、歴史的な建築物がぎっしりと建て詰めている。
ここポルトベーネレの海岸も、地中海の海賊にそなえ、砦の如く、ぎっしりと建物が詰めかけている。









北ベトナムのソヒィティイルホテルの窓より、ハノイ湖をスケッチ。2005年12月23日、もう年の暮れだ。
年末の異国で、歴史の大戦争を忍ぶ。アメリカは北ベトナムに勝てなかった。これはすごいことだった。






イタリア・ヒレンツエの街を高台より望む。ドウモガ街の中央に高くそびえ建つ。
ここからイタリアルネサンスが始まったのだ。






ヒマラヤのふもと、ブータンの仏寺、3000mの高峰絶壁に建つタツアン僧院、ブータン秘境の中で有名な僧院である。
ブータンの人々は極貧生活を重ねながら、98%の国民幸福度を誇る。




韓流ドラマで人気の韓国桜名所をバスツアーで一週間。小学校時代の同級生Y夫人と同行、シンガポール以来の2人でのシークレット旅行。
ホテルは同室、しかし最後まで2人はベッドで触れ合うことはなかった。後日友人から酒の席で「君は何故彼女を抱いてあげなかったのか」と叱られた。
今から思うと、彼女に大変申し訳ないことをしたと反省している。例え人妻であっても、お互い好きならば抱き合えば良い、これが世の若い人達の常識ではないか。
僕は妙な倫理観を若い頃から持っている。 結婚を前提としないSEXは、自制すべき。例え妻亡き後と言えども自分のかたくなな倫理観はそのままだった。
しかしこの思い出も随分昔話、今はもう彼女とは疎遠になってしまい、コロナ自粛を機に4年間も会ったこともない。






2009年6月、龍門石窟と三国志というテーマで、3000km6日間の洛陽ツアーに参加した。揚子江に面した赤壁古戦場も観た。
中国の奥地を旅しながら、かって毛沢東達が、中国を長征し、革命を開いた史跡を丹念にスケッチした。今はすごい勢いで中国現代化が進む。








久しぶりにタイ・バンコックを歩いた。昔は屋台がずらりと並んでいた市内幹線も、高速道路と高架鉄道は頭上を走る。
昔、バンコックでは王宮巡りをし、金ぴかの仏像が妙に印象に残ったが庄司さんという古い友人は日本の家族を捨て
バンコックで若い娘と家庭を持ち、息子はすでにチュロコン大学に通っているとか聴いたが、その後どうなったか。







次男夫婦は毎年ヨーロッパへ連れて行ってくれた。2005年北イタリア、2006年中欧、チェコ、オーストリア、ドイツへ2007年南仏そして
2008年9月はレマン湖モンブランへ。次男はパソコンで現地を詳細調査し、すごい目玉のスポットを、豪華ホテルで事前予約。
2008年レマン湖、モンブランの旅では、シャモニーの麓街で連泊、毎日マッターホルンを仰いでスケッチした。
お蔭で、ヨーロッパの観光地は殆ど次男夫婦と共に夏のバカンスを楽しんだ。






フランス・レマン湖畔、イボワール古城へ船で渡る。レマン湖湖畔では、チャップリンが晩年ひっそりと老後をすごしたという
ブドウ畑のある湖畔邸宅を訪問、ヨーロッパは明るいなあと感激した。






紀元前218年、地中海の通商王国カルタゴの名将ハンニバルは、歩兵5万、騎兵9千、象37頭を率いてスペイン・ピレネー山脈を出発、アルプス山脈を越え、イタリアへ攻め入り、大ローマ帝国を揺るがした。
紀元前146年 カルタゴは、壊滅され、街は瓦礫と化し、ローマ人はカルタゴの大地に塩を撒き、再起不能にした。カルタゴの跡には、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国、そしてヨーロッパ列強と支配者が蹂躙する歴史絵巻を重ね、その間さまざまなる文化を融合し、今日のチュニジアを形成した。2010年2月チュニジア世界遺産紀行8日間の旅に出た。










僕が海外旅行に始めて出たのは、1965年、26歳独身 まだ1ドルが360円の時代だった。台湾が最初の訪問地、台湾で1週間を滞在した。
会社を代表し、毎日華僑オーナーと商談を重ね、夜は丸紅・伊藤忠の支店長等から何度も豪華な夕食会に誘われた。
台北超一流と言われる高級キャバレーに丸紅支店長に誘われ、超美人に囲まれ、すっかり酔っ払い、女性同伴でホテルまで送られ、始めて大人の世界を知った。
後日丸紅支店長はこの夜のことを松本専務にこっそり耳打ちし、松本専務より「こら西川 お前台湾で何をやってきた」と笑われた。でも叱られはしなかった。
その後同期の友人に僕の童貞はこの夜でおさらばさと話したら、「何だ お前 そんな年まで童貞を護っていたのか」と 笑われた。
殆どの友人は、学生時代、いや高校時代に密かに大人の世界を味わっていたと知った。





  
2012年9月 次男夫婦はポルトガルへ連れて行ってくれた。ポルトガルは赤ワインで有名。この川岸はワイン工場がずらりと並ぶ。
100m以上もあるるいす1世橋上で、3人で写真を撮った。近くのロカ岬は、大陸西最先端、大西洋に夕陽が沈む絶壁に立ち
ポルトガルの大後悔歴史を忍ぶ。リスボンの街には、今も市電が坂道を登る。






中国、天安門広場に出たのは文化大革命がまだあちこちに残っていた昭和59年。壁には例の壁新聞が張られ、国民服を着た
北京市民が群がって壁新聞を読んでいた。当時の宿舎は伊藤忠北京支店。北京飯店の中にあった。ここで食べた北京ダックはすごく美味かった。
北京飯店から天安門広場までは毎朝僕の散歩道。中国の革命史が胸に響く大空間でもあった。





ギリシャ・アテネポリスに登った時は、さすが「嗚呼古代ギリシャ宮殿に来た」と感激した。
すでに、アクロポリスの全景は、大英博物館でじっくりと観察出来ていたので、今目の前に本物のアクロポリスがあると
思うだけで、すごく感動した。何枚も何枚もスケッチを描いた。








東日本大災害衝撃の2011年3月末、加納さんを中心に絵の仲間7名は、通訳兼運転手原氏と共に、2週間のスペインスケッチ旅行に出発した。思えば2008年4月スペイン巡礼の道をピレネー山脈から出発しバルセロナまで2週間1000kmを走ったが、今回はスペイン南部アンダルシアの奥深い山村を求めて、800kmの道を走る。ロンダの崖の上にあるホテルでは、スペインの闘牛場が直ぐ隣にあった。







2011年4月、スペイン南部アンダルシア、アルコスの崖の上に建つ アルコス・デ・ラ・フロンティアという国営パラドールホテルの前、僕の部屋の
窓からこのホテルが大きく見えた。30分毎に近くの教会の鐘の音が聞こえてきた。独身時代、銀行員の彼女と付き合っていた。
ある日、2人の足は自然にホテル街を歩いていた。しかし、うぶな自分はホテル街を通り越して何もなかった。今から思う。彼女にはその気があった。
もし、ふとホテルの門をくぐったら、僕は彼女と結ばれ、全く違った人生を歩いてきた結果になる。人生はひょんなきっかけで決まる。





2009年10月、次男夫婦はイタリア。シチリア島一周に連れて行ってくれた。ここラグーサの坂道は通りかかったホテルの前で
いかにもシチリア島の雑踏を想起させる街角だった。






2011年11月、中国・杭州・西湖を訪問した。穏やかな湖のほとり、1本の柳の木の麓、
中国古代の文人達はここに立ち、様々な詩を読んだ。日本からの留学生はこの詩を広く日本へ伝え広めた。



フランクフルトでクロアチア航空に乗り換え、首都ザグレブを歩き、2日目には、中国は九賽溝に似たポリトヴェツエと言われる湖水群がものすごく美しい大自然を歩き回った。3日目はアドリア海世界遺産のシベニク・スプリット・トロギール・ドブロヴニクの中世城壁都市を楽しんだ。ドブロブニクは街全体が海岸に突きでた要塞都市、まだ街のあちこちにボスニア戦争の傷跡が生々しく残っていた。










憧れのギリシャ・アクロポリス大遺跡。ここで描いたスケッチは10枚を超える。ヨーロッパ旅行最大のスケッチポイントだった。




2013年マレーシアをあちこち旅をした。いずこも、イスラム教が仏教国へ浸透してきた面影をのこす。
マラッカは、華僑の街、今も中国人がマレーシアに侵入してきた当時の雰囲気を残す。







2013年5月、4度目のスペイン2週間の旅、マドリッドから出発、大西洋岸サンタンデールに至る。途中アルタミラの洞窟では
ゆっくりと原始時代のヨーロッパ民の絵心を味あう。スケッチの石造り民家は、レオン近郊地区。









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