定年後の読書ノートより
北のまほろばー街道をゆく・41―司馬遼太郎著、朝日文庫
まほろばとは、まろやかな盆地を意味する古語。倭は国のまほろば、とは伝説の日本武尊のうた。北のまほろばとは、東北地方こそ先史時代もう一つの国家があった地だとの司馬さんの思い。

青森は太宰治から始る。残念ながら太宰治の視線は、故郷を悲しき国となげく観点だ。ところが陸奥、出羽、の歴史を憧れの視点から求めていく司馬さんをおいかけるように、古代歴史はその姿をゆっくりと三内丸山遺跡発掘にて現し始める。「北のまほろば」は街道をゆく国内版では長編となる。例え偶然にせよ、司馬さんのこのシリーズが、東北考古学脚光のきっかけになったことは素晴らしい。東北は縄文採取のくらしに絶好の適地であった。

柳田国男氏は東北の豊かさのなかに民話は生まれたと語る。太宰は東京より西は生涯興味を持たなかったそうだ。彼は京都も、大阪も一度も訪ねる事もなく生涯を閉じている。東北を愛しながら、東北の歴史に自信を持てなかった太宰治と、素直に東北の歴史を評価していく司馬さんの違い。

明治維新、薩長は戊辰戦争の敗者会津藩士への復讐は過激なものがあった。明治3年、会津藩士2800戸を本州最北端、下北半島田名部に集団移住を強制させ明治6年扶持米打ち切りがあり、なをこの米も育たぬ寒冷地に300戸の藩士が住み着いた。会津若松に残ったのは農民と町民のみ、しかし今も会津若松市と田名部は深くつながり、田名部の苦しみを知る会津若松市は今も萩市との兄弟都市関係は結ばない。

八甲田山の悲劇を語る司馬さん、最初に師団、連隊、中隊の規模を読者の為に記す。

師団divisionとは、中将以下1万数千人、弘前第八師団はその後日露戦争で大活躍。日本では常備軍として師団は20ほど持っていた。

連隊regimentとは、大佐を長とし、2千名程度の歩兵連隊。

中隊connpanyとは、大尉を長とし、2百名ぐらい。青森歩兵第5連隊、1個中隊210名のうち、199名が凍死した。新田次郎の作品を読んだ一人として、この軍隊鳥瞰図は随分有難かった。

北のまほろばは、東北三内丸山遺跡発掘に遭遇する司馬さんならでこその記念碑的作品である

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