定年後の読書ノートより
街道をゆく10、佐渡のみち、司馬遼太郎著、朝日文庫
最後の数ページにある無宿人の話が壮烈な印象を与える。無宿とは戸籍のない人間のこと。人別帳に記載されてない人間とは、江戸期の刑は連帯性であり、それゆえ犯罪をおかしかねない親族を持つ親兄弟は、不良少年を容易に人別帳から抜く事が出来、こういう人間は江戸、多くは本所・深川周辺に集まった。

一方不況を期に江戸人口増加を腐心していた勘定奉行石谷淡路守は、直轄地佐渡金山の水替人足不足を無宿人で埋め合わせようと、無宿人狩りを頻繁に行い、罪のない無宿人を捉え、一人づつ唐丸篭に入れ、江戸から佐渡へどんどんと送った。当時の幕府書類には、彼等は無宿であるから、欠落死失しても届けるには及ばないと明記されており、その正式な無宿人葬送の実態は判らない

水替作業は地の底である。坑内岸壁にわずかに足場を作り、つるべをおろして、一昼夜ぶっ通しで水をくみ上げる。交替はわずかな食事時間だけ。これほど過酷な労働はない。灯火の魚脂の悪臭が立ち込め、換気がわるく、一酸化炭素にやられその場で死ぬものも多かった。死なずとも数年で珪肺になって死んだ。

勘定奉行川路は「40を超えるものはなく、多くは3年、5年の内に肉落ち、骨枯れて、しきりに咳出て、すすのごときもの吐きて死する」と彼の母へ送った手紙の中に書いている。無宿人は江戸から鉱山まで唐丸篭のまま送られ、鉱山に到着するまで道中はずっと篭の中だった。最後に一杯の甘酒がこの世の見納めにと思えと配られたが、誰も2杯目をおかわりするものはなかった。

坑内につくと、親方はおおなたを振り上げ、鬼のような叫び声をあげて、唐丸篭をてっぺんから真っ向に絶ち割った。無宿人は転がり出た。気を失う者も多くあった。地獄へ来てしまったという思いが、いまも廃山の中の道端にかすかに残って、地を這っているような感じがする。という文章で司馬さん、佐渡のみちを締めくくっている。

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