定年後の読書ノートより
街道をゆく。仙台・石巻、司馬遼太郎著、朝日文庫
司馬さん、飛行機の上から甲斐冨士を見つめて考える。東北人が冨士山を大挙して始めて見たのは、北畠顕家が足利尊氏を追って50万騎の軍隊を引き連れて上京したときに違いないと。西の太宰府、東の多賀城。

仙台藩は54の小さな藩の集合体であり、その体制は江戸時代も保持された。江戸の前半期、経済が米経済であったとき、仙台藩は封建体制をかちかちに固めてしまい、後半の貨幣経済に乗り遅れると共に、後世加賀藩の如き、伝統工芸の如き余裕地場産業育成までも、受け継いでいく懐の豊かさもなかった。

沃土を破産から持ちこたえたのは、先駆的啓蒙思想家、山片幡桃であった。彼は仙台藩を米輸出の藩として、貨幣経済と米経済の舵取りをうまく成し遂げた。

仙台医学専門学校で魯迅を感動させたのは藤野先生の献身的な留学生指導だった。しかし誠実な藤野先生も愛知医学校卒という経歴から東北帝国大学発足に際し福井の里に町医者として帰る外なかった。最後まで魯迅が藤野先生を忍んでいたことを知らずに、終戦の直前他界。東北大学には長岡半太郎、本多光太郎、西沢潤一教授と、学問に徹せる蒼々たる学者を集めた。西沢潤一先生の光ファイバーは、箱から飛び出した弧をえがく水に光を通すと光は自在に屈折するという原理から出発した。

塩釜はかって、塩の巨大産地だった。海岸に群生する海草を利用した製塩方法は、万葉集の歌にも偲ばれる。松尾芭蕉が松島を見て、「松島や、ああ松島や、松島や」と詠んだとあるのはおかしい。松島は歌枕として古代からよまれ、その境地に感動したに過ぎず、うかつにも、松尾芭蕉がそんな浅い歌を詠むはずもない。奥の細道はもっと芸術的だ。松尾芭蕉という人間は後世の人々が自分の歌をどう読み取るかを一生懸命に配慮した歌人である。

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再読、街道をゆく、26、仙台・石巻

明後日から、家内と2人で東北秋の十和田湖を訪ねる。仙台から松島、平泉から十和田・奥入良瀬渓谷、男鹿半島、秋田へのコースを3日間バスで回る。紅葉を望んでいるが、天候は必ずしも期待出来ない。幾つかのガイドブックを覗いても、司馬さんの街道をゆく以上に、旅をダイナミックに描いている本はないことを確認。再度、仙台・石巻を読み返した。

松島は日本三景のひとつだという。(天の橋立と宮島厳島が日本三景の2景)。太宰治は「惜別」の中で、魯迅にこの景色のよさを見つけるのに、苦労している。松島の悪口ではない。景色というものは、遠くにあって思うべきだ。土地の人は苦労している。「松島や、ああ松島や、松島や」。落語の大家さんが、熊公を前にしてつくりそうな句、おそらくは「名月や、ああ名月や、名月や」をもじったものであろう。芭蕉が可哀相だ。

芭蕉は「おくのほそ道」で、松島の景観を絶賛している。「そもそもことふりにたれど」と小船に乗って、島々をまわっている。芭蕉は奥州という歌枕の地に、古人をしのび心をふるわせて臨んだ。その芭蕉がこんなノンキなトウサンの句をつくるだろうか。「松島や鶴に身をかれほととぎす」とは、曽良の句。詩人の皮膚は、つねに剥かれ、吹く風にも傷みが走り、羽根にくるまれれば歓喜を噴き上げる。

観光とは、本来高い精神でとらえるべきだ。松島の美は古典文学によって成立している。「古き良き松島よ、たじろぐな」。2000年10月5日記

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