定年後の読書ノートより

かぶと山-旧満州安東工場従業員敗戦直後手記、旧満州東洋紡績安東会編

東洋紡対嵐荘図書にひっそりと1冊の手記が眠っている。読みはじめてみると、この手記はすごい。手記の一部をここに転記させて頂いた。

戦争を知らない若い人達に戦争とは何であるかを知って頂ければと思う。

(貝原氏手記)8月も10日頃だったか、急に駅が騒がしくなり行ってみると、北方の開拓団一行の引き揚げで、見るも憐れな姿の人達で混雑していた。良く見ると衣服は殆どの者がボロボロで、中には南京袋に穴をあけて着ている者、すでに亡くなっている子供を抱いた者など、目をおおうばかりの悲惨さで、さながら生き地獄を見る思いであった。こんな日が終戦を前に毎日続いた。

(高橋文江手記)終戦を境にその日から変る満人の態度。会社の食堂で人民裁判なるものがおこなわれ、私は恐ろしさに目を開けていることができなかった。今後どうなるのだろうと不安の日々だった。

(岡野鈴江手記)何かといえば人民裁判にかけられ、銃殺された人もあった。銃でつつかれて歩くのは生きた心地はしなかった。

(貝原氏手記)人間は不安な日々が続くと、みさかいもなく権力者に媚びるようになる。日本人を売った憐れな人々を何人か見た。自分もはじめのうちはラジオを床下に隠し、夜半内地の情報を聞いて、心安い友人や同僚に流していた。ある日突然八路軍の家宅捜査を受けた。あとで解ったがS氏の密告であった。S氏はその後も虚偽の密告を繰り返し、われわれの社宅には少なからず迷惑をかけた。S氏は東洋紡の社員であり、自分の先輩でもあったが憐れな人であった。S氏の消息は引き揚げ後聞かない。

(藤井幸枝手記)安東駅から無蓋車に乗りました。貨車には枕木が積んでありその上に雪が積もり凍っていました。背負っていた赤ん坊が凍死しているのに気がつきながらどうすることも出来ませんでした。

(乾氏手記)深夜の駅は冷える。零下30度は越えているであろう。子供達が泣き出しそうな顔をしている。ありあわせのボロや綿屑等を靴の先に詰めて、子供達の凍傷を防ぐ。駅を出て白酒を求め、アルミ製弁当箱を盃かわりに呑む。体内より暖をとるしかない。飲めない人達は必死の思いで身も心も厳冬と戦っている。

(小柳氏手記)収容所では、疲労の上に何百人もの人がアメーバ赤痢にかかり、どの部屋も病人で足の踏み場もないほどだった。私も赤痢にかかり苦しい思いをした。女、子供が死んでゆき、夜になればローソクや線香のもと、親や知人に見送られ、いずことなく姿を消す遺体をまのあたりにした。

(小田氏手記)あの当時、引揚者に国及び会社が何等援助しなかったことは、世相の現状から仕方なかったにせよ、悲しい思いをした。安東会名簿の中に今も不明者が非常に多いのは、気が滅入る。これは私達は勿論、社会全般が引揚者を充分援助し得なかった結果ではなかろうか。

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