定年後の読書ノートより

議会主義とコミンテルン(レーニンと資本論34)不破哲三、雑誌経済7月号
同じ号に、かって名大教授だった畑田重夫先生が書いている。「不破さんは政治家というよりは、学者だ」。

不破氏の問題提起は、レーニンの革命戦略を多数者革命の角度からみたらどこが間違っていたか、それを当時の歴史の流れから明らかにしようとしている。

レーニンはロシアに続いて、ヨーロッパ革命が連続蜂起し、世界革命に発展しうる、それはドイツ革命から始ると確信していた。しかしレーニンは、カウッキーとの論争で、「議会主義中央派」を背教者と位置づけてしまった勢いは、そのまま「ブルジョア民主主義を否定し、ソビエット政権こそが時代の新しい展望である」と結論づけ、この過ちを最後まで持ち続けた。この過ちはコミンテルンの発足にまでつながっていく。

しかしドイツの情勢は、レーニンが期待した通りには進まなかった。ワイマール体制下、社会民主党政権と軍部は密かに手を握り、国防相ノスケはカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクを虐殺した。

レーニンは、少数者革命で容易に成功出来たロシアのモノサシで、民主主義が進んだヨーロッパの革命を判断しようとしていたところに間違いが始った。主観主義的な革命論を厳しく警戒していたレーニン自身が、議会主義の否認、民主共和制の枠組否定し、科学的社会主義論の大道を大きく踏み外し、少数者革命路線をコミンテルンの路線に強いた。レーニンはその後、前衛だけが革命に熱中する左翼小児病を厳しく警告しているが、すでに議会制度の破壊論や少数者革命を唱えている最中の議論では、この警告も制約、限界をまぬがれない。

レーニンが世界史的には時代おくれと断じた議会制度や普通選挙権こそが、1920年以降の20世紀の歴史は、ファッシズムなどの反動的な攻撃から政治的民主主義をまもり、政治的な民主主義の発展の形態として、21世紀への生命力であり、我々はそのなかに社会発展の道を探求することを、世界史の大きな課題としている。

外から革命を内に持ち込むこと、それは歴史の歯車を無理に回そうとすることであり、決して正しく回わらない。この貴重な歴史教訓を我々はロシアとドイツの革命から十分に学ばねばならない。

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