定年後の読書ノートより

知的市民と博物館、梅棹忠夫対談集、平凡社
国立民族学博物館の梅棹先生が、失明後も続けられた各界名士との対談集。博物館とは何か、博物館を観る市民はいま急速な勢いで、その知的水準を充足していると語られる梅棹先生の情熱は、読む者をして、博物館への思いをさらに高める。

開館2年で120万人の入場者を達成した民博。創立は渋沢敬三氏の保谷市自宅に設立した日本民族学会に始る。ここで、民族学と民俗学との違いはどこにも、説明はない。自分の手元にある、民俗学とは何かというAREAの1冊には、逆に国立民族学博物館のことは何も載っていないのが、気になる。

梅棹先生は書いている。国立民族学博物館は、市民の教養の場である。主力は成熟した大人の市民である。学校の先生方は生徒達に博物館をどう観せたらいいのか判っていない。先生達は博物館の「観覧学」を学ばねばならない。スミソニアンではそれを先生方に指導している。

博物館での心がまえは、展示物そのものに語らせ、展示物に驚いてほしい。学校は圧力をともなう。博物館はむしろ圧力は逆に向いている。知識を獲得するのに学校は強制をともなうが、博物館は強制ではなく、自分で知識をもとめていくところなのです。こういうものを見たい、知りたいという要求に駆り立てられていく、自分でそれを調べたくなる。博物館はそういうところです。

教科書で教えている歴史の流れの像は概説であり、博物館はその概説を「もの」で見せる。博物館を出る時には、参観者は、歴史に対する概説とは違った認識を持つようになる、実物を見る感動が知的世界への吸引力になる、その物による知的関心の開発、学習ではなく知的探求です。知的関心がむらむらと沸き上がってくる、これが博物館の理想的な観方です。

日本では教育が非常に発達していて、市民の間に高度の素地がある。博物館では知的会話が大切にされる。博物館は知的探求の機関であり、娯楽機関である。知的探求は楽しい、知的な遊びがある。知的な遊びを楽しむ人、この人達こそ人間として高尚なのですね。啓蒙、教育ではない。

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