定年後の読書ノートより
ルポルタージュを書く、鎌田 慧 著、岩波同時代ライブラリー
ルポルタージュに対する著者の信念はいい加減ではない。曰く。ルポルタージュは、たんに情報を伝達したり、話題を提供するだけのものではない。過去の事件や現代の人間を描いたりしながらも、けっしてそれで完結するものではなく、現代をテコにしながら、未来をこじあけるものでなければならない。

これまでのすぐれた作品は、たがいに歴史に参加しながら、着実に現代の読者に読み次がれてきた。昨今の“ノンフィクションブーム”は、そのような歴史意識を希薄なものにしているに過ぎない。出版界での需要拡大のための新商品として扱われているだけのようである。と鎌田氏はいう。また、氏は、僕はルポルタージュを書いてきた。最近はノンフィクションという作家が増えている。そういう人達は、現代社会についての歴史的考察が薄い。そのほうが職業として成立しやすい為か。

大宅壮一も書いている。ライターの条件として、マルキシズム通りと、文学通りと、マスコミ通りを通過した人だけが、本物のライターになれると。しかし今や大宅氏の弟子と称する人達にも、反骨のカケラもない。鎌田氏は鋭く最近のライターをつく。

最近は、文章は達者だが、問題がどこにあるか、さっぱりわからない作品が横行している。若い書き手はだんだん上手くなっている。しかし文章は上手いが、中味は何もないというものが多い。書き手の情熱と書きたいことが明確に表れている作品が少ない。

たとえば「女工哀史」などは、方法論としてはそれほど面白いものではないけれど、書く執念、書きたい想いみたいなものは、よく伝わってくる。そういう問いかけが、今はかなり不足している。

事実の時代とかいわれて、ノンフィクションが流行しているようだが、事実はどこにも無数に転がっている。だから、事実がもてはやされたとしても、それはそれほどの意味もない。問題なのは、どんな事実にこだわり、その事実に依拠して何を書こうとするかである。ルポルタージュを書くのは、難しいことではない、しかし、何故そのことを書こうとしているか、そして何を訴えたいのかを読者に伝えるのは、さほど簡単ではない。少しでも現実に食い込み、現実を切り開こうとするライターの登場があまりにも少ないのは心淋しい。

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